文化財

熊野大社の秘仏

熊野大社の阿弥陀如来。かつて熊野権現と呼ばれる仏様が熊野の大神様として現れたと考えられ、本殿に安置されていた秘仏です。阿弥陀如来は、人々を苦しみから救い、極楽往生に導いてくださいます。万葉の昔、「恋」は「孤悲」と記されていました。孤悲は、ひとり寂しく、大切なひとを想う切ない気持ち。大切な人と出会い、ずっと一緒にいたいと思う愛おしさ。孤悲という言葉には、嬉しさや悲しさ、心が引き裂かれるほどの想いが込められています。人々のご縁を結ぶ熊野大社の神様。その現れである阿弥陀如来は、時に孤悲の苦しみからも救ってくださいます。

木造菩薩形立像および脇侍

木造菩薩形立像および脇侍 (阿弥陀 観音 薬師) 平安時代

熊野大社に安置されていたのは、阿弥陀如来(本殿)・観音菩薩(二宮)・薬師菩薩(三宮)の三尊です。阿弥陀如来は、末法の世にあって衆生(私ども一般の人々)を救い極楽往生の導きをしてくださる仏様であり、薬師如来は人々の病気を治し安楽な生涯に導いてくださる仏様です。紀州の熊野三山では、本宮大社では阿弥陀如来、速玉大社では薬師如来を安置しています。那智大社では千手観音を安置していますが、当社では二宮(那智宮)では、観音菩薩を安置しています。東北では観音菩薩に対する信仰が強いので観音菩薩を安置したのだろうと思われます。観音菩薩は阿弥陀如来によっては救済されなかった人々を救済する仏様です。

唐獅子

唐獅子 室町時代

狛犬と同様、ご神前に向かい合わせに置かれます。向かって右側の唐獅子は口を開けてア(阿)の音を、左は口を結んでン(吽)の音を表し、宇宙の始まり(阿)から終わり(吽)を表しているといわれます。阿吽の呼吸という言葉はここから生まれました。当社の場合は、御本殿前に置かれていました。表情が豊かで、重量感あふれる体部、丸みのある背部は古い時代の特徴をよく伝えています。

狛犬

狛犬 室町時代

狛犬は、一般的には神様の守護のためにご神前に左右対称に置かれています。当社の場合は、二対の狛犬が伝えられていますが、明治の初年までは、二宮神社と三宮神社に一対ずつ置かれていました。木割りが丁寧で前足の狼爪を写実的に刻み出すなど丁寧な作りになっています。室町時代のものですが、鎌倉時代の作風を伝えています。

善光寺仏式神輿

善光寺仏式神輿 室町時代

当社を鬼門の祈願所と定めた上杉家は、善光寺如来を当社に安置しました。その折に、善光寺如来をお遷しした時に用いられた神輿と考えられます。その後、善光寺如来は米沢城下の法音寺に遷されました。法音寺では善光寺如来は秘仏として公開していませんので、善光寺関係の古文化財で公開されているのは、当社の善光寺関係文化財だけです。

善光寺銘華鬘

善光寺銘華鬘 室町時代

華鬘は、仏堂を荘厳に飾りつけるための一種の装飾品です。蓮華模様を透かし彫りにして中央に善光寺の銘があります。表面の文様の形式から室町時代の作と考えられています。当社は、善光寺神輿と共に伝来したものと思われます。

金銅三坪旛

金銅三坪旛 室町時代

旛(ばん)は、幡とも書き、魔を降し、福・延寿をもたらすものであり、後には仏堂を荘厳に飾りつける装飾具ともなりました。上の半円の部分を旛頭(ばんとう)、次の長方形の部分を旛身(ばんしん)と四条の旛足(ばんそく)といい、旛身が三つの部分から成り立っていますので、三坪旛といいます。一番上の一坪には梵字、次の二坪には法輪、三坪には煩悩を滅ぼす羯麿文(かつまもん)が透かし彫りになっています。旛足は四列に花菱を繋いで垂らしていますが、瓔珞(首飾りのようなもの)です。

懸仏(御正体)

懸仏(御正体) かけほとけ 応永17年(1410年)8月 室町時代

神仏習合の時代、神様は仏様のあらわれと考えられていました。そこで、神様の御正体として懸仏を礼拝することが盛んに行われました。この懸仏の中央下部には、「大旦那 法阿弥 法光 応永十七年 八月吉日 啓白」の名文があります。旦那は寄進者のこと。法阿弥の号は本地仏阿弥陀如来に帰依し一体化したいという願望の表れでしょうか。法光は熊野山往古屋敷割図にみる「法光坊」と関係を持つと考えられます。当社には室町から江戸時代の懸仏が十一面残っていますが、応永十七年の銘をもつこの懸仏は最も古いものです。

伊達政宗安堵状

伊達政宗安堵状 だてまさむねあんどじょう 安土桃山時代 天正18年(1590年) 10月3日

伊達政宗が天正十八年(一五九〇年)熊野山証城寺に仏供田を安堵(保証)した書状。安堵状とは、主君が家臣の所有権等を許可、保証する文書のことを言います。差出人は、この地方を支配していた伊達政宗で、朱印で押された「福寶」が政宗の印であることからそれがわかります。受取人は「北条熊野証城寺」です。北条郷は、当社を総鎮守とする地域の名称であり、ほぼ現在の南陽市全体の地域でした。当社は当時、「熊野山證誠寺」と呼ばれる一山寺院でした。